そこらへんのくたびれちゃった人のよもやま話

どこにでもいる、ちょっとヨレてる人があーだこーだつらつら書き散らかします。

一番うまいドーナツ

最近ミスタードーナツゴディバとコラボして、なんだかラグジュアリーなドーナツを売っているらしい。

ミスタードーナツ、最近行ってないけど、ミスドで一番好きなのはオールドファッションだ。

あのパサパサしててうすら甘くて牛乳っぽい味もする感じが良い。その次はシュガーグレイズドが好き。甘いから。

だが、ドーナツの中で一番好きのはミヤタのヤングドーナツだ。

ミヤタのヤングドーナツもオールドファッションと同じく、パサパサしててうすら甘くて牛乳の味もするのだ。しかも一個一個が小さいので何個でも食べれてしまう。

ドーナツは揚げ物なので、ミスドで3個とか食べるとだんだん胃にダメージが蓄積してくるのだが、ミヤタのヤングドーナツはなぜか、もたれを感じさせない。

1袋に3個入っているが、平気で10袋開けてしまう。

値段は50円だかそこらで、500円で30個食べれてしまう、なんと言うリーズナブルさ。

味もうまいし、これは涙なしには語れない企業努力があるに違いない。

自分の小さな夢として、いつかミヤタのヤングドーナツを箱買いして、家で牛乳を飲みながら食べてみたい。

でもなんだかんだ、たまにはクリスピークリームドーナツも食べたい。

歌詞を書いてみろという。

この前バンドの友達と飲んでた時、曲を作ってみたいけど作り方がわかんないと話したら、とりあえず歌詞を書くところから始めてみたらと言われ、テーマを二つとりあえずもらいました。

テーマは居酒屋のドリンクメニューにあった、「東洋美女」と「庭のウグイス」

どちらも途中までですが、深夜テンションに任せて書いて幾晩か寝かせて、やはり才能ない人が深夜テンションで書いたものは共感性羞恥の塊だなと思ったので、ここに晒します。

 

「東洋美人」

半月の灯りの下

紫煙をくゆらす煙管

目に刺さる燻煙

趣がわからない僕

 

タイムカプセルの酒で

目の前が揺らいでいく

 

短調な風を

全身で浴びたい

どこから来たの

どこへ行きたいの

妖艶ともいえない

わからないな何も

フィルターが夜に降りていく

 

病みさえ奥ゆかしい

虚なのか哀愁なのか

視線で何を描くの

赤道も歪みそうなくらい

 

月からの迎えもとまどう

帰る場所などないのかも知れない

 

短調な香り

鼻につくほどに

面紗は無意味

浅ましい本性

所詮は張子

何もないんだ貴女

艶やかな、がらんどう

 

気づいていないのがタチ悪い

元の鞘にさえ拒まれてしまう

着地のない空中駆け引き

糸繰り人形が嗤っている

 

短調なつもり

機微を知ることも

貴女はしない

ままごとの雅

妖艶は香水か

安物の朝焼け

置物が微笑んだとて

 

 

「庭のウグイス」

 

ほら、綺麗な声で鳴いてみな

耳障りがいい音しか聞こえない

 

ああ、雑音が混ざる気がする

縁側に入る身分じゃない

 

オレたち目先の穀物

欲しいがためにさえずり囃す

 

叫ぶことを忘れ飼い殺され

本音は空に、籠に甘え

澄んだ声しか出せない喉元

掻き切ることもできぬまま

 

はて、待てども卵が孵らない

施しは過ぎるほど与えども

 

ああ、恩知らずな畜生ども

庭にいればいいだけなのに

 

オレたち生垣に囲まれ

安堵するためさえずり囃す

 

叫ぶことを忘れ飼い殺され

自由はとうに、鉛の羽

澄んだ声しか出せない喉元

掻き切ることもできぬまま

 

叫ぶことを忘れ飼い殺され

本音は空に、籠に甘え

澄んだ声しか出せない喉元

掻き切ることもできぬまま

 

おいぼれに飼われ食い殺され

雛たち土に打ち付けて

 

(誰にも需要のない解説)

「東洋美人」

この言葉を聞いて脳裏に浮かんだのはミステリアスな雰囲気をまとった寡黙な容姿端麗な女性です。しかし、言葉をあまり発さないのはどうせ中身が空っぽなんです。それを悟られないため言葉を発するのを躊躇うんじゃないかと思います。雰囲気を作って自分のブランドを確立した気でいる、そんな浅ましい人間です。

私は雰囲気だけ取り繕ってごまかしているだけで、みんなからもてはやされるような中身のない人間は嫌いです。でも、中身のないことさえも艶やかな奥深さに昇華できるような人間がいるのだとしたらそれは文句なく東洋美人でもなんでもいいですが、そんな勲章を与えてやってもいいくらい大した人間だと思います。

現代は写真の加工技術や、アバターの技術でなりたいものになれる時代です。誰もが東洋美人になれるのですが、そう言ったものが全て取り去られて、彼らの本性が白日の下に晒される時、その安っぽさがいままでどうにか確立してきたものを崩していくのです。

東洋美人という張子の下は我々となんら変わらない、あるいは我々よりも底が知れてしまう。案外人間ってそんなに大差ないものだと思うのです。

 

「庭のうぐいす」

鳥は他の生き物が自力では到達できない、空を我が物顔で自由に飛び回ることができます。鳥が持つ翼は自由という概念によく紐付けられるのではないかと思います。

そして、ウグイスという鳥はそんな自由を持ちながらも綺麗な声で鳴くことができ、ある種の才能に恵まれているのではないかと思います。

そんな才能も自由も持つようなウグイス達が、生垣や塀で囲われた庭になぜ居なければならないのかというと、その所有者に飼われているからだと考えました。

「飼う」という行為は所有する存在を擁護するものあると同時に、その生殺与奪の権を握るものだと思います。つまり、飼い主の気まぐれ次第では飼われている存在は死ぬことや酷い目に遭うことだってあるということです。

なので、ウグイス達はせいぜい飼い主の機嫌を損ねないよう、本音を押し殺し綺麗な声で鳴き続けるしかないのです。

これは、現代社会の権力あるものとそうでないものとの二項対立にも言えることではないのかと思います。

社会を所有する権力者と、その中に生きる我々。彼らは国民のためとか言っていますが、本音はウグイスの飼い主とおなじなのではないでしょうか。本音を言うような者は切り捨てる。綺麗な声しか聞こえないような環境を自分達で作っている。

我々飼われている側は切り捨てられることを恐れ、そして、どんなに声を上げてもどうせ届かないと諦め、目先の安全を取り、多少の苦しみは甘んじて受け入れるしかないのです。

そのため未来なんかに希望を見出せない。

LUNA SEAのセルフカバーアルバムを聴いた感想など

11月末にLUNA SEAの名盤、「Mother」、「Style」をセルフカバーしたアルバムがリリースされました。

ここ最近、出費がかさんでいるのでレンタルに出たら借りて聴くかあ〜と思っていたら、なんとリリース日当日にサブスクからも聴けるようになっていた。

あまりにも太っ腹すぎるだろ。

これは聴くしかないので、リリース日から今日まで毎日聴いてました。

感想を語り合えるような人もいないので、ここで少し。

まず、一言でざっくり言うとどちらも最高すぎました。

再録版というと、オリジナルに色々アレンジをして原曲とはちょっと別物になることが多いような気がするのですが、LUNA SEAのこのセルフカバーのアルバムたちはオリジナル版のアレンジにほぼ忠実に演奏されている。

驚いたのはSUGIZO氏のXのつぶやきで、「Style」に収録の「WITH LOVE」という曲にある冒頭のレコードをスクラッチした音を再録するにあたって当時と同じレコードを掘り返してきて、全く同じスクラッチ音が出るように色々と工夫をしたとのこと。そこまで忠実に再現しようだなんて、こだわりなんて言葉を通り越して病的である。

しかし、アレンジはほぼ同じではあるものの、随所に今のLUNA SEAにしか出せない音の厚み、洗練されたニュアンスやアタック感、アンサンブルが詰まっていた。オリジナルが研ぎ澄まされたナイフのように鋭い音な印象なのだが、今回のセルフカバー版はずっしりと思い鈍器のような(例えが下手)重厚な音なのである。

一方で、「End of Sorrow」や「In Future」が特に顕著に見られるのだが、ボーカルのエフェクトやシンセ(?)の音、ギターのオクターバーがオリジナルよりも抑えられバンドの生のサウンドをグッと押し出したようなミックスもされているところもある。原曲から引き算をすることによって、バンドの音の解像度が上がっている。オリジナル版では聴こえなかった音が聴こえてくるのである。

普通はこのように削ぎ落としてしまうと、ともすれば、薄っぺらい印象になってしまうのではないかとも思われるのだが、かえって骨太な音になってしまっているのが、LUNA SEAというバンドの凄みなのだと感服してしまった。

ギターの音に着目すると、オリジナル版はどちらかというとトレブル(高音域)に寄った音作りとなっているのだが、今回の再録版は中域をブーストしており、これまた濃密でリッチなサウンドとなっている。

特に「ROSIER」のリードギターは、あとちょっとトレブルを削ってしまうとこもった音になってしまうのではないかというくらい、中域と低域をブーストさせてしまっているが、一歩引くことにより他の楽器が程よく前に出ており全体のサウンドとしては絶妙なバランスを取っているのとともに、原曲の疾走感と今のLUNA SEAの重厚さを両立させてしまっている。とんでもない芸当である。

最後にボーカルのRYUICHIは昨年の初め喉を壊し、手術を受けて5月に復帰しているのだが、その後あまり調子が戻らず、声が出にくい印象である。今回のアルバムでもそのようなところは垣間見えるが、ところどころかすれてしまっているところがオリジナルでの尖った雰囲気を出していることができており、新たな境地に至ったのではないかと思えた。

このセルフカバーアルバム2作品を聴いて、現LUNA SEAは今なおもバンドとしての音を追求しているのだと思い知らされた。

最近はどちらかというとエレクトリカルなサウンドを活用した曲やアレンジが多いが生のバンドの音を突き詰めて、どこまで濃いものにできるかというこだわりが存分に詰まったアルバムであった。

 

好きなもの

以前、嫌いなものリストを作ってネタがない時のために書き溜めて公開しました。

随時そこも人知れず更新してたのですが、そっちもネタ切れになったので、今度は好きなものリストを書き溜めましたので、ネタがないので公開しますね。こちらも随時更新します。

好きなものを見つけていくと反面で嫌いなものももっとはっきりするかも知れませんね。

・ピザ

・ラーメン

・焼肉

・お寿司

・ギター

・メタル

・愛嬌のある犬

・ギャンギャン吠えてる小動物が、でかい動物にガチで噛まれてるような瞬間

・家庭をかえりみなかった仕事一筋の赤の他人の頑固親父がいつのまにか家族に見放されて孤独になってしまったと言うエピソード

・調子乗ってるインフルエンサーがちょっとしたほころびで転落していく様子

・というか、ちやほやされてたひとが落ちぶれていく様子全般

・でっかい牛肉の塊を豪快な大男がバーベキューで焼いてる様子

・雑学系のゆっくり解説

・ユーチューバーの「もののけ」さん

・喋るのが上手いオウムとか九官鳥

・目がいってるキャラクター

・パンどろぼう

・カエルのカーミット

・犬のグルミット

・オレみたいな陰キャチー牛が陽キャがやって成立することにチャレンジして見事失敗して惨めになっている様

撮り鉄が邪魔されてるところ

・そこらへんのなんの才能もないクソガキがテレビ番組でおだてられ、自分に才能があると勘違いして何かに挑戦して途中途中でわかったようなことを言ってたくせに、最終的に見事に失敗して現実に直面して心をぶち折られている様

・渋いおっさんたちが暴力全開のアクション映画

・朝の電車で席の取り合いになって、無理やり割り込もうとしてきたけど、結局は図体とパワーの差で押しのけてやった時のジジイババアの悔しそうな顔

・中域が効いてるギターの音

・頭の悪そうな料理ばかりを作ってるユーチューバー

・意識高くてプライド高めなやつのちょっとしたミスを鬼の首を取ったように詰めまくってやるとき

・スーパーとかコンビニとかで、オレより幸せそうなやつが取ろうか迷ってた最後の一個のおにぎりを、サッと取ってやった時の雰囲気

・奇抜なことがかっこいいとか思ってるけど、そもそもあんまり面白くないやつが、めちゃくちゃに叩かれて、バツが悪くなってる様

・なにも被害を受けてないのに、被害者ヅラしてる奴が現実に打ちのめされてしまうとき

・オレみたいな陰キャチー牛がイキって店員とかに無理難題を言ってみるもののあっさり跳ね除けられ、釈然としない顔で反論もできないまま立ち去る様子

ヴィーガンヴィーガンすぎて栄養失調になって苦しむ様

・金持ちのバカな子どもが転落する様子

・オレに優しくしてくれる人

・オレに金をくれる人

・宝くじのクジラが浜に打ち上げられて、海に戻れないので衰弱していき、最後は息絶える様子

・せっかく賭けてやったのにあっさり負けた馬の馬刺し

・給料日

・ボーナス支給日

・三角折りしているトイレットペーパーを雑に引きちぎってやる時

・論破されてるヴィーガン

ヴィーガンズ・ハム

何も失う覚悟のない奴が全てを得ようとするな

私は人生で何を得たでしょうか。何も得ていません。

今日友達と飲んでてなぜそんな人生なのかわかりました。

私は何も失う覚悟がないのです。

その友達たちは、彼らは全てを失っていて、その分得ているのです。

必ずしも全てを失ったからと言って何かを得られるわけではない。

失ったところで彼らは死ぬほどの努力をして、今何かを得ることができている。

中途半端に何かを持っている人間が努力したところで、そんな努力は所詮中途半端な努力にしかならない。

何もかもを失ってそれでもなお、全てを取り戻そうとする中途半端な人間には辿り着けない次元の努力を彼らはしている。

私にはそれを語ることもましてや想像することも許されないようなものだ。

だから、今何も得られない同胞たちよ。

社会、国家、時代、そう言うものを悪者にしている浅はかな私たち。

搾取されていると叫ぶな。

我々は搾取されるべくしてそうなっているんだ。

我々は目先の幸福とか安心感を拠り所にするがばかりに何も得られていないのだ。

全てを得ることができるのは全てを失う覚悟が出来るものだけなのだ。

我々は、お前らは、お前は、ぬるま湯に浸かっていながら被害者ヅラをして、独りよがりな思いを垂れ流しにしている、生き物として最底辺にいるのだ。

それも自覚できなかった私も、お前らも、世間の底に溜まって、上から降ってくる霞を取り合って、日々を消費していくしかない。

私たちに物を言う資格はないのだ。

自分になってしまった日

私はこのブログを既に人格形成が終わってしまった人たちが読むことを主に想定して書いています。

なぜなら未来ある子ども達に、あとは世間に揉まれていって人生の落とし所を見つけるしかないだけのこんな人の文章なんて読んでもわからないだろうし、わかってしまったら世も末だと思うからです。

話は変わりますが、あなた達が今のあなたとなった瞬間だったり、出来事だったりそう言う決定的なもの、

つまりはあなたの今の人格を形成するきっかけとなったのはどの時点にあるでしょうか?

何言ってるんだこいつは、人間ができるのは日々の連続の中だろう。

確かにそうです。でも、その連続が順調にちょっとづつ重なってくっていう人はそんなにいないのではないでしょうか。

今回は私がいまの私になるきっかけとなってしまった日のことについて書きたいと思います。

そもそも、今の私はどんな人物かというと、根暗で自己肯定感が低く、ひねくれている、概ねそんな人間です。

それは、中学3年のことでした。

その時私は体育祭の応援団をやることになりました。誰もいなかったから半ば押し付けられました。

一緒に応援団をすることになったのはその時つるんでいたというか一方的になにかと絡んできた奴と、クラス一のイケメンといわれてた陽キャ男とクラス一の美人と言われてた陽キャ女と陽キャなのに学年の中でも一二を争うバケモノではと言われてた女でした。そして、私は学年一のクソブス陰キャ男でしたが、まだそのことははっきりと自覚はしていませんでした。

応援団はクラスで応援合戦的な時に男女ペアになって踊るダンス的な物を事前に覚えてクラスのみんなに教えるというのが一番重要な役割でした。

なので、一番最初に応援団内でペアを作ることになります。

話し合いの中で、クラス一のイケメンとクラス一の美女がペアになり、バケモノと言われてた女と私がペアになることになりました。

私はそもそも応援団を流れでやることになって特に何かこだわりがあったというわけではないし、(強いていうなら踊る曲目を応援団の意見で決められるということだったので、その時からハマっていたB'zを万に一つでも曲目に入れられればと心の隅で思ってましたが)カーストが上の人に意見なんてする気もまるでありませんでしたので、異論はありませんでした。

私と組まされた人はちょっとだけ、不満を一瞬滲ませましたが、まあ淡々とやるかくらいの感じでした。

しばらく、曲目や振り付けを決める打ち合わせをしたり、練習をして、みんなに教えていこうという段階にほどなくしてなりました。

そして、クラス練習も進んでいき、あと体育祭までもう少しだとなりました。

いつものように放課後クラスみんなで残って練習している時、自分とペアを組んでいた女が何かが彼女の中で切れたようです。

「私、こいつと組みたくないんだけど、どうしても無理」と大声で言い出しました。

そして、なんだかわからないですが、強引にクラス一の男女ペアの美女の方と私が組んで、イケメンと組まさないとやらない、という主旨のことを言い出しました。

美女の方は割合穏やかな性格で、その場を収束させなくてはと言う思いで、わかった、私がこいつと組むから、、、とその日からペアが変わりました。

この時点でこんなにはっきり、半ば公開処刑な感じで嫌悪感を示されてしまい私は割とショックでした。

ブスにさえ嫌われたおれはなんなんだと言うのもあったんですが、それ以前に自分ってなんて無価値なんだろうと気付かされました。

そして、その美女とペアを組んで進めることになったのですが、話してて表情は笑ってても目の奥が笑ってないし、なんなら目線はこちらから常に逸らされている。

クラスの他の陽キャ内では、あの美女があのあいつと組まされることになってしまったかわいそうとなってて、私はいたたまれないのです。

薄々自覚してたのですが、私は人から嫌われる存在だとこの時はっきり気づきました。

色々と自分を見つめ直して、応援団を流れだけども最後の最後に断らなかったのは、もしかしたら自分も応援団をやったら陽キャの仲間入りになれるかも、という浅はかな打算が少しだけあったとも気づきなおさら自己嫌悪に陥りました。

この経験から私は、人々の中心にはいられない存在で、むしろできるだけつつましく、隅っこで生きて他人の迷惑にならないように過ごさなきゃいけないんだ、みんな自分を嫌っている前提で生きていかなきゃと思うようになりましたし、反面、人々の中心にいるような人を憎むようになりました。完全に嫉妬、ないものねだりですね。

だから陽キャは嫌いだし、ワンピースのルフィなんかには感情移入ができない。

そして、劣等感が転じて、自分の身内じゃない人々は自分のことが嫌いなんだから、その人らは自分の敵だとも思うようになり、赤の他人の幸せを見せつけられるのが嫌いになり、人の嫌なところばかり見つけては陰でネチネチ言うようになったり被害妄想が激しくなったわけです。

この記事を書き始めたのは、9月頃でしたが、改めてあの出来事を振り返って、自分の中に落とし込んで言語化するのに思ったより時間がかかってしまいました。

ちなみに、この経験から私は世の中で美女と言われてるような人が怖くなりました。だって目の奥が冷たいから。

たくさんの裏紙を君へ

最近、SNS、ギスついてると思うんですよ。

自由主義にさらに拍車をかけられ、さらに多様性が極まり単一化が進んでいる風潮。

そんな中で名のない個人の声があまりにも大きくなっている。

声だけが大きくなり、中身は独りよがりなものが多いので、もはや混沌とした騒音だけが、そこにある。だから見ていて疲れてくるわけです。

 

多様性を盾に自分の価値観と合わないものを否定する人。あなたは自分の価値観に合わないものを多様性に反するとしていますが、それは単にあなたの気に食わない人を封殺しているだけ。巧みに言葉遊びをして一部のシンパシーを得て、よってたかって自分と対峙するものを押さえ込む。あなたがやっているのは、多様性の促進どころか、自分の価値観に合わないことの排斥。

つまり、自分の思い通りにならないからゴネて、その他大勢の人の言動を誘導しようとする子どもと同じなのです。

 

主語をあえて大きくして、個人への批判を社会への提言にすり替えようとする人。

直接自分の意図する人に話をしてください。どうせ、風呂敷を広げてもそこに入るのは1人だけなのだから。

自分が直接人に言えないことの臆病さを社会という、大きくて曖昧なものに転嫁するのは卑怯です。

 

過去と現在の相違点を切り取り、現象それ自体を批判する人。

状況が変わっていくのは当たり前のことですが、それに文句をつけたところで何になるのでしょうか。いろんな理屈をつけてこうなったのは誰が悪いと言う犯人探しをしたところで、変わるものが何かありますか。

まず、あなたは変化に適用する努力を一度でもしたのでしょうか。

そもそも、その変化はあなただけが経験しているものではなく、みんなが経験していることです。問題提起をするのはいいことかもしれませんが、それだけをして何の意味があるのでしょうか。あなたはいつだって問題だとだけ言ってそこへの建設的で現実的な解決法を見出したでしょうか。

適用力のなさを周りのせいにしているだけなのではないでしょうか。

 

SNSはよく、便所の落書きだと言われるものですが、こんな落書きが便所にされていると心穏やかに用が足せません。

私は、よくミスプリントや書き損じをして裏紙をたくさん作ってしまいます。あなたたちの「提言」はそこにとりあえず書いて、気が済んだらシュレッダーにでもかけるのが適切でしょう。

と、ここまで書いて一番ギスついているのは私であることに気づきました。全部お前らのせいだ。