そこらへんのくたびれちゃった人のよもやま話

どこにでもいる、ちょっとヨレてる人があーだこーだつらつら書き散らかします。

暗い真昼のコーン茶

 ダイエットのために、平日は1日1食で済ませてるんですよ。

 朝昼抜いて、晩ごはんだけ食べる。

 そして、土日は好きなものを好きなだけ食べると。

 食事を抜くダイエットは、反動で食べた時のリバウンドがやばいとかなんとか言われていますが、私の場合はそんなこともなく、じわじわとものすごい時間をかけて、体重が落ちているところです。

 そんな生活を多分2年くらいしていて、2年間で5〜6キロくらい体重が落ちました。だから、ほんとちょっとずつじわじわという様な感じです。

 ただ、そうは言っても昼休みは、やはりお腹は空くので、食べ物の代わりにお茶を飲むことにしています。ペットボトルの冷たいやつ。

 ずっと脂肪が落ちるから、という理由でウーロン茶を飲んでいたのですが、最近コンビニにコーン茶というものが売っているのを見かけました。

 えっ、とうもろこしからもお茶作れるんだ。

 でも全然売れてねー。まずいのかな。などと思い、その後もしばらく立ち止まって思いを馳せようとしたのですが、昼休みのコンビニは混んでいて人の往来も激しく一箇所に突っ立ってると邪魔になると気づき、焦ってそのコーン茶を手にとってレジの列に並んでしまいました。

 並びながら、やっぱりウーロン茶に変えてこようか、いや、でもこんな混んでるのに人の波に逆流してったら舌打ちされるよな、などと考えていたら自分のお会計の番になってしまったので諦めて買いました。

 毎日毎日満員電車に乗ってようやく会社に来て、バタバタと午前中働いて。そして、昼休みになったら、お茶だけ買いにコンビニに行き、そこでお茶を選ぶのさえもゆっくり選べないなんて、嫌な人生だなと思いながら、休憩スペースの空いてる席に座り、コーン茶をしげしげと眺めました。

 とりあえず、一口飲んでまずかったら適当にパントリーの流しにでも捨ててしまおう。

 あんまり気が進まないですが、キャップを開けました。

 そして、恐る恐る一口飲んだところ、何ということでしょう。

 まず、コーンが焙煎されたような豊かな香ばしさが口の中に広がり、そして鼻の中にまでその香りが抜けていく。こんなに奥行きのある、味のお茶初めて飲んだ。

 そして一口目よりも多い量を二口目で飲むと、香ばしさのあとに、とうもろこしの甘みが、ほんとにコーンポタージュとかそういうのを飲んだあとのような甘みがふわっと舌の奥から、鼻腔を駆け上がっていく。

 あまりの風味の豊かさに、身震いしてしまいました。

 そこから、一口一口、舌の感覚に全神経を集中させて飲み続け、あっという間にペットボトルが空になってしまいました。

 500mlで、一体何なんなんだろう、この満足感は。

 喉の渇きとか空腹感のほかに、こんなに心が満たされるなんて。まさか人生において、お茶でここまで感動してしまう日が来るなんて思わなかった。

 平日の鉄筋コンクリートとガラスとつまらなさと諦めでできたオフィスビルの殺伐とした、コンビニで小さな幸せに出会えてしまうとは。なかなか人生も捨てたものじゃないな。

 社会人になって初めて、昼休みを消費せず、憩いのひとときとできた様な気がしました。

 

今年の漢字(個人的所感)

 今年の漢字、誰が選んだかはわからないですが「熊」になったようですね。

 相次ぐクマの被害や、それに伴う生活への不安、パンダの中国返還など、何かとクマ科の生き物が話題になったからとのこと。

 私も北部地域での多数クマ出没のニュースを日々見聞きしている中で、不安を抱えたまま函館に旅行しに行き、心の片隅をざわつかせていました。

 2泊3日の旅程において、幸いにも遭遇することなく、旅を楽しめましたが、地元の人はそんな不安の中に常にいなければいけないというのは、なんとも心苦しいところです。

 そんな微々たる不安は感じたものの、こちらも幸いにも私は都会暮らしで周囲に山のないところで生活をしているので、野生の脅威を身近に感じることはなく、何一つ不自由なく生きているので今年一年を通じて「熊」が共にあったかというと、正直に言うとそうではないです。

 と言うことで、個人的な今年の漢字について、考えていきたいと思います。

 ずばり、私の一年は「丸」という一文字に収束すると考えています。

 今年は30代に入って2年目、31歳の誕生日を迎えました。

 ここで書いたかどうか忘れてしまいましたが、30歳になってから心身ともに衰えを感じ始めました。

 今年一番の体の不調として、痛風にかかったことが挙げられます。

 早速マルじゃなくて、バツじゃねーかと思われるかと思いますが、もう少し付き合ってください。

 日頃、酒は飲み会の時に好きなだけ飲みはしますが、それ以外で日常的な飲酒の習慣もなく、痛風の原因たる、プリン体を多く含有する魚卵やレバー、内臓、エビなどもまた、日常的に多量に摂取しているわけでもなかった(そんな贅沢品を日常的に摂取できる人の方が、少ないと思います)のですが、結果として爆発してしまったのです。

 医者にそのことを伝えると、だとすると体質の問題やストレスなど複合的な原因が考えられると言うことでした。

 水分をしっかり摂取するよう、より一層心がけ、野菜を食べる比率をできるだけ多めにして、プリン体のほか油物を可能な限り避けるように、なによりストレスを自分にかけすぎないように、とのことでした。

 総括すると、体に優しく無茶なことをするなと言うことですね。

 発症してしばらくは、野菜を蒸したものばかり食べていたのですが、思いの外苦痛ではなく、食べていて体に馴染むし、どこかほっとする気持ちになったんですよ。

 それ以降、定食とかにサラダがついたりすると、少し嬉しい気持ちになりますね。

 もちろん、プリン体とかも意識して、極力少ないものを選んで食べるようになりました。

 また、いままでは残業を22時過ぎるまでやって、家に着くのが日付を超えても、次の日もほぼ問題なく仕事できていたのが、今年になってからそもそも20時になると、もう目がしょぼしょぼしたり、背中と肩がバキバキに凝ってきて、集中できなくなったり、無理やり22時までやった日なんか次の日は疲れで全く仕事にならなくなったりもしました。気力の低下ですね。最近は、どこまで一つ一つの仕事の手間を省いて、短い時間で多くのことを処理できるか、パワーよりも小技(?)で働くようにしています。(小技がうまく効いてるかは別として。)

 さらには、最近めっきり冬になって寒くなって来ましたが、今年は、体感的に寒さが体に応えるようになりました。冬でも家の中では、半袖半ズボンで過ごしていたり、真水で皿洗いなどしていたのですが、ヒートテックにモコモコした靴下を履かないとキツくなったり、お湯で皿を洗わないと手が冷たさで痛くなって来たりなってきました。

 もう色々と無理が効かなくなり、自分に優しく、穏やかな日々を過ごしたい、そんな角の取れた丸みのある生活になって来たのかと思います。

 音楽の話だと、20代のときはゴリゴリに歪んだギターの音が好きで、歪みがないとその物足りなさで不安にすらなっていました。

 しかし、ここ最近は、ジャズやブルースやシティポップやファンクなども聴いてみたりして、歪みは最小限にして、ピッキングのニュアンスでパンチや歪みを効かせていく奏法の良さに気づきました。

 今やなんならクリーンでもいいかと思う場面まで出てきました。

 イコライザーもいわゆるドンシャリというよりは、中域を削りすぎず、尖りすぎずまろやかなサウンドを作れればと嗜好が変わりました。

 (サウンドの輪郭をはっきりさせるのはクリーン寄りの音だったり、ジャズの音楽性は見方によっては尖ってるので、そう言う意味では角取れてないじゃんとも言えますが…)

 最後にこの記事を書くにあたって、色々と構成を考えていたところに、なんと友人から第一子誕生の連絡がありました。

 生まれて間もない、お子さんの写真付きだったのですが、印象は、丸い、柔らかい。

 本当の生身の命っていうのは、丸く、柔らかいのだと気付かされました。

 丸。それが本来の我々の姿で、成長するとちょっと尖った形になるけれど。

 歳をとると、また丸に還っていくのかも。 

 新しい命にもそうでない命を持った我々も来年からも丸く。円く。穏やかに、健やかに、つつがなく生きていけるといいですね。

 オチも稀に見る、角の立たない着地にできてなにより。

科学的宗教

 少し前に、自分の実の父親が、よくわからない怪しげな宗教に入信していたと言うお話をしたかと思います。

 実は、母親も陰謀論とかそう言うものを深く信じてしまうタイプなのです。

 添加物を摂ると死ぬとか、コロナワクチンは人を殺すとか、サプリは人工的で危険とか、あのチェーン店は〇〇っていう物質を使ってるからガンになるとか。

 まあ、いますよね、そういう人。

 そういう人は、スピリチュアルなものにはなびかないのだろうけど、それらしい物質名と過激な結論が書いてあると、それだけを認識して、一口でも摂ると死ぬ、みたいな理解に飛躍しがちな気がします。

 多分その間に「過剰摂取したら」とか、一定の条件が書いてあると思うのですが。(大体普通の生活して摂取している範囲では、危険を実現するまでに満たすほどでもないものだと思います。)

 市販されていたものに、思わぬ有害物質が入っていて、大規模な健康被害を起こした事件

もたまにありますが(紅麹とか、異物混入とか、BSE)、多分、そういう事件を見聞きして、自分の身は自分で守らなければという発想から来てるのだろうと思います。

 そういう人たちは、前述のとおり、特定の条件下でリスクが発生するという旨の言説を見ると、自ら曲解して普遍的に発生するものと思い込んでしまうのです。

 タチが悪いのは、そういう性質の人々に漬け込んで、原因と結果だけを、かいつまんで、あるいは、論理を飛躍させて触れ回り、注目や金を集めようとする連中がいるのです。最もらしい理屈をつけて、顕在する可能性が限りなく低いリスクを、さも当然発生することのように触れ回って、それを避けるために商品やらサービスやらを売り付け金を集める。

 これの一番良くないことが、顕在しにくいリスクであるから、効果があるのかないのか測定しにくいので、彼らの言っていることの真偽が分からず、詐欺とまでは言えなく、ただ、大きなリスクがあると言う情報だけが世に出回ってしまうこと。そして、それを信じ込む人が徐々に増えていって、いつしかそのリスクを対策することが必要であると言う説が一般化してしまうこと。それはもうほとんどゲン担ぎみたいな感じになったとしても。

 科学と宗教、あるいはスピリチュアルは対極にあるものというイメージはありますが、昨今はこう言った科学的宗教とでも言いますか、そんなものが蔓延っているのではないかと思えるのです。

 ちなみに、件の実の父親は最近、またいかがわしい自己啓発セミナーにハマっているようで、ここ数日色々連絡が来始めました。

 動向を注視していきたいと思います…。

 

箱に紙を入れるだけで決まってしまう未来

先月は、都議会選挙、今月は参議院選挙と選挙ラッシュ。

駅前に「一生懸命やってます!」アピールをしながら往来を妨げる立候補者や、在宅勤務でミーティングしてようが、休日の朝とかにもう少し寝たい気分でいようが、爆音で名前を連呼する街宣カーがうじゃうじゃ発生するので、私は選挙シーズンが嫌いです。

自分らの金が、巡り巡ってそういうくだらない活動のために使われると思うと、なおさら腹が立ちます。

SNSやインターネットを見ると、投票しない人は馬鹿だとか、投票しない奴が政治の文句を言う資格がないとか、過激な意見も最近見るようになりました。

これは、昨今の不安定な経済や産業の状況や外交上の課題や移民の問題、などなどまとめると国政の全てがうまく行ってないことに起因して、主権者たる国民としての意識を持つべき、と言う主張がされているのかと思っています。

ただ、私はこの主張には同意しかねる部分があります。

ニュースなどを見ていてもこの人、あるいはこの政党に政治をやってもらいたい、と思える候補者などがいないと感じてしまうのですよ。

現行の与党は政治的に失敗しているし、ほかの野党も主張が極端なところも多いし、比較的穏当な主張をしているところも、過去に政策的に失敗をしているところだったり。

私にとって、投票に値する人や政党というのがないのです。

それだったら、自分で立候補すればと言われそうですが、そもそも私はスキルがないし、昨今の状況を打開できる妙案を持ち合わせていないので、適格がないので無理な話です。

そういうことなので、どこかに投票しろ、と言われるのは今の自分にとっては自らの考えを無理やりどこかに合わせて、賛同したくもない思想に賛同させられる、江戸時代の踏み絵と変わらないくらいの思想弾圧なのです。

そもそも、SNSの投票原理主義者たちは、投票場だけが政治的主張をなせる場だ、という前提を持っているような気がするのです。

そう言うところでしか、主張できないと言う社会なのだとしたら、それはあまり健全でないと思いますし、投票に行かない=政治に関心がないと言うのもあまりに短絡的な発想だと思います。

さらには、参政権は国民の権利であるところ、文脈的に、義務であるような主張になってしまっている人もいたりします。

権利を義務化すると、やりたくもないことをやらなきゃいけなくなると言うことも発生するので、とても生きにくい社会になるのではないでしょうか。

紙を箱に入れるだけで未来の全てが決まってしまう。そういう社会に対して、そう言う人たちは声を上げるべきなのでは、と思う今日この頃です。

癒されるもの

ネタ切れの時の、リストネタ。

今回は癒されるもので。

・犬

・犬が大喜びであるさま。

・犬が幸せであるさま。

・犬に喧嘩を仕掛けた猿が返り討ちにあってるさま。

・犬にちょっかい出したクソガキが思っクソ噛まれてるさま。

・クソいかついイケてる渋い声の、この道何十年かのおじさんに漢のフルパワーで指圧してくれる、全身揉みほぐしコース60分3600円(値段も癒しポイント)。

東京ディズニーランドとかの世界観。

東京ディズニーランドでクソいかつい外人のオッサンがニコニコでシングルライダー楽しんでるさま。

・中国人のくせに民度よくて、シャレが効いてる中華料理店のババア。

・増量祭でとんでもなくでかいファミチキをトングで取ってしまって、「こんなでかいんだけど…」となぜか申し訳なさそうにしてた、ババアの店員。

・様子のおかしい動物のマスコットキャラ。

・歪み多めのギター。

マイケミカルロマンスが何気にエピフォンのギターとか使ったりしてるところ。

・天才キッズに仕立てたいと親がインスタとかに投稿してみてるけど、実際目も当てられないくらい下手くそなギターキッズ(また天才キッズかよと己の才能に絶望しかけたところで、このザマなのでその緩急も合間って)。

・川越シェフが炎上して10年くらい経ってYouTubeやり出して、なんか人間性が丸くなってる感じ。

・朝の満員電車でガリガリのチビなおじさんが、ぶつかりおじさんとして挑んでくる時の必死な顔。

・池袋のホームレスがすごくたまに、菓子パンを心から美味そうに食ってるさま。

・とりあえず報いを受けちゃってどうにもならなくなってる人達のやりきれない様子全般。

プラネタリウム

・ソアリンとかいうディズニーシーの眺めも良くて匂いもなんかアロマ炊いてる、あからさまに恩着せがましいほどに、癒してやります!って感じのアトラクション。

・バックトゥザフューチャーのドク的な鳴かず飛ばずな発明家がウキウキで怪しい発明品紹介している様子。

・疲れてお腹ぺこぺこで帰ってきた時一口目に飲む味噌汁。

・5連休

・10時間睡眠

・在宅勤務でする昼寝

・風呂上がりに飲む、冷たくて甘い液体全般

・健気に咲く花(30歳になってから、花で心が和むようになってしまった。)

・サボテン

・いい感じの庭園

・自然の雄大

・温泉

・湯船

・工場夜景

・ボーナスとかで、とにかく大量の金銭を得た時の安心

・ちいかわみたいな「ボク、無実のイノセントですが?」な感じのやつが挫折とか現実に直面している時

・「さよなら人類」のラスサビの「ついたー!」のコーラス

・ 「さよなら人類」のラスサビの「ついたー!」のコーラスの奴を3ヶ月間、光も音も届かないところに閉じ込め、解放した直後にコーラスパートが回ってきて声が全然出なくなったので、バンドが崩れてしまうさま。

ウォレスとグルミット

ひつじのショーン

ムーミン

スヌーピー

・平日、四六時中ストレスにさらされているから癒しが癒しなんだという皮肉

・うまいこと言ってやったと思ってる奴が理屈ガバガバすぎて、大人によってたかって、ボコボコに詰められて何も言えなくなってる様。

マクロはデカくて、ミクロはそうでもない

 生活や仕事をしているなかで、頭を使ってあれこれ考えなきゃいけない局面って、ありますよね。

 私はそれがあんまり上手な方ではなくて、常日頃、周りの人から考えの欠陥を指摘されたり、バカにされがちです。

 中年になった今でもそうなんですが、前はもっと酷かった。

 しかし、ある人の言葉を受けてギリギリどうにか、人間としての思考ができるようにはとりあえずなれたんです。(多分)

 それは、大学の先生が授業中におっしゃってたことなのですが、曰く、

 「簡単なことを難しく考えるから難しくなるんだ。人間はなぜか遠回りして考えてしまうものだ。」

 「逆に、難しいことをまずは、直線的に考えていくことが、なにかきっかけをつかむのにつながっていくということもある。」

 当時、私は大学の勉強も色んなことを知るにつれて、逆に難しくなってわからなくなっていたことや、周りがぼちぼちインターンとか行き始めている中で、自分もと思うけど、まず履歴書とか応募フォームの設問に何を書いたらいいのかよくわからず、あれこれ考えて出したものがあっさり不合格になるような日々でした。

 しかし、この言葉を聞いて「そうか、まずは結論とかゴールとかを決めちゃえばいいのか」と思いました。

 どうも私は、物事を進める時に結論とかではなく、手に届く範囲のこまごましたことにばっかり目が行ってしまい迷子になる、そんな性分なようでした。

 例えていうなら、ずっと足元ばっかり見て、歩いてる、そんな感じです。しかも目的地も決めずに。

 簡単なことなんですけど、言われて目からウロコでした。

 社会人になって会社に勤めるようになった今でも、何か難しい課題に直面したとき、その言葉を思い出します。

 この課題は結局どうなるべきなのか。現状はさておき、どうなっている状態が一番いいのか。

 それを、まず考えて、決め打ちしてそこに向けて理屈を組み立てたり、色々検証したり。

 大体最初に決めた結論ってのは無理なものなので、(なぜならそれができたら最初からそうしてるから。)目的地を少しずつ設定し直して。

 それの連続で一歩でも前に進めれば御の字。それくらいの感じで生きてます。

 木を見て森を見ず。っていう言葉がありますが、何か追い詰められたり、色んな問題が起こってワーってなった時って、そうなっちゃいますよね。

 そんな時こそ、今起こっていることをちょっと俯瞰して見るってのが大事だなと常々感じます。あんまりできてないんですが。

 YouTubeのネタ動画(某通信制予備校の映像授業のパロディみたいな動画)で「マクロはデカくて、ミクロはそうでもない」っていう発言があったのですが、まさにそういう視点が大事だと思うんです。

 つまり、デカいマクロなものをまず押さえて、そうでもないものはもう、ミクロで瑣末なことなんだと一回、目をつむっちゃうってことも時には大事。

 そして、最後にそうでもないものの大きさを見極め、一つ一つ向き合う。

 そんな姿勢でこれからも生きていきたいものです。

今回のクジラ駆除状況

 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

 年末年始といえば、年末ジャンボですね。

 前回はクジラに根こそぎケツの毛まで持っていかれたような結果でしたが、今回こそは全てを取り戻すべく、チャレンジしました。

 今回の投資額は1束10枚3,000円。

 おれの10億を取り戻すんだ。

 

 前回の敗因はバラでしかも3束も買ったこと。

 投資額が大きい割に一等+前後賞を見込められず、期待値が低いことが起因と見た。

 今回は前回の負けもあり、1束分に投資金をコンパクトにして、連番を買うことで、最小のコスト・リスクで、最大のリターンを狙う。

 そして、抽選日の朝に水回りの掃除をして、確率変動を発生させる。

 これで、限りなく期待値が上限までに高まり、大きな収益を手堅く得ることが出来る。

 しかし、インターネットで宝くじの高額当選者の行く末を調べてみると、浪費による破産や大金を得たことにより人間性が歪んでしまい、人間関係が悪化するなどの情報があった。

 そのため、今回は確実に莫大な資金が手に入ることから、今後の資金運用計画、年度ごとの予算計画、そして生活での行動指針を策定した。

 これにより、当選後の人生における安定と豊かさの両立が約束された。

 準備は万全。明日からおれは人生をただ、愉しく生きることになる。

 そして、当選番号発表。

 前回は、1等から見て行った。

 今回はそこは確定しているが、急いては事を仕損じるという言葉もあり、どこでクジラの罠にかかるかわからない。

 危なかった。番号確認の寸前で気づいた。

 今、おれはクジラと命のやり取りをしているのだ。

 しかし、ぬかったな。億分の1にもおれが10億を逃すということがなくなった。

 それでは、いざ、結果を見ていこうじゃないか。

 まず、末等、300円。当たっている。おいおい、まさか、1等と前後賞だけでなく、全ておれにくれてくれるつもりか。

 次は6等、3000円。これも当たっている。おれはこの世の全てを手にして晴れて放蕩に人生を使い切ることができるのか。

 5等、1万円。これはハズレ。さすがに、高望みか。分をわきまえる必要は確かにある。

 4等から2等もハズレ。しかしこれらも10億と同じ組ではない数字達。組と番号の割り振られ方を見るに、ここで当たってしまうと、連番で買っている故、10億は必然的に当たらないことがわかる。うまくシステムをつくったものだ。

 そして、本命の10億。

 これでおれは長年の臥薪嘗胆の日々から抜け出せる。

 すべての苦悩はこの瞬間の喜びのため。ありがとう。そしてさよなら。

 番号を見て、頬を一筋の涙が通る。

 歓喜の涙ではない。それは、全てを喪失して、未来を閉ざされてしまった、絶望からの涙だった。

 そう。またしても。またしても、あの邪悪なクジラはおれから全てを奪って、券面で嘲笑しながら躍動しているのだ。

 なぜなのだ。これ以上おれから何を奪ったら満足するというのでしょうか。

 おれは、そっと当選発表の画面をスワイプして閉じて、横で期待に胸を膨らましながら見ていた同居人に言いました。

 「換金したら、はま寿司行こっか。」

 同居人は静かにうなずき、仕掛かり中だった洗濯物を畳む作業を再開したのでした。

 

後記

 1月の初めから、この記事に取り掛かっていました。

 しかし、10億円をまたしても取り逃がした悲しみと悔しさなど心の中で渦巻いた諸々の感情を整理するのに、時間がかかり、噛み砕いて飲み込んでは、書き、ということを少しづつしか進められませんでした。

 ようやく、整理し終わって、初めて思えたことがあります。

 私達は今年こそは必ず、来年こそは必ず、と例え、2000万分の1の確率であるとしても、宝くじに挑み続ける。

 いつか、幾億人の希望を蹂躙し、真っ直ぐな目でこちらを見つめながら、苦悩し続け、地べたを這って辛酸を舐め続けることこそが、人間の分限であると嘲笑っているクジラから、むしり取ってやりたい。

 そんな執念だけで、私達は途方もなく無謀な挑戦をし続ける。

 それは幸福への飽くなき渇望。

 そう、人の生きる本来の目的は幸福を掴み取るため。

 そのために、人類は考え、手足を動かし、今日より明日が少しでも良くなるようにもがきつづけてきた。

 このクジラはいろんなことに置き換えられる。

 身の回りの日々の課題、悩みでもある。人類が抱える普遍的な問題でもある。経済でも災害でもある。人間は自分よりも大きなクジラを狩り、その次はさらに大きなクジラを、というように、果てのない闘いの連続に晒されている。

 それでも、我々は生きていかなければならないのです。

 心が折れても、身が砕けそうになっても。

 果てしない遠景の彼方に灯る、ほんの小さな灯火に向かって、私たちは歩き続けなければならない。

 それが生きるということなのです。