そこらへんのくたびれちゃった人のよもやま話

どこにでもいる、ちょっとヨレてる人があーだこーだつらつら書き散らかします。

消えていく残響

 X(旧:Twitter)の投稿で知ったのですが、先日、お台場でCRASH CRISISという日本のメタルバンドを集めてのフェスが行われたとのこと。

 しかし、2万人のファンが集結と宣伝文句に書いておきながら、3000人もいないのではないかというほどの、過疎ぶりだったそう。

 トリのバンドの出番になっても余裕で前の方まで行けたとのこと。

 他方で、私が昨年観に行った、ノットフェスはコロナで2年ほど延期になりながらも、幕張メッセの会場が7〜8割埋まるほどの盛況。

 違いは何かと考えると、酷暑とも言える暑さの中、アスファルトの反射熱も激しい屋根もない会場という、過酷な今回の環境であったり、スリップノット、コーン、パークウェイドライブという名だたる豪華洋楽バンドを集められたということもあるかもしれない。

 しかし、より突き詰めて考えていくと、いわゆるジャパメタというジャンルが流行らなくなっているところにあるのではないかと思う。

 聖飢魔IIラウドネス、アンセム……と言ったLAメタル路線なサウンドは良く言えば様式美とも言えるし、悪くいえば古臭いのだと思う。

 ここから先は個人的な偏見だけども、この年代のジャパメタはなんとも中途半端だと思う。

 これより前の日本の音楽は歌謡曲だったり、演歌だったりと言うものなので、その年代のジャパメタミュージシャンは多かれ少なかれ、根っこの部分にはそのニュアンスが染み付いてる気がする。

 なので、曲のメロディの節々にそれが出てしまっているように感じる。

 特に歌メロのボーカルの伸ばしがなんか長かったり、ところどころコブシの効かせ方が演歌っぽかったり。

 どこかオリエンタルで叙情的といえばそうなのだが、たまに野暮ったく聞こえてしまう。

 ただでさえ、歪んだギターでズンズクした伴奏に、ピロピロしたギターソロとか、パワーなドラムビートなんて敬遠されらようになってきているのに、そこに歌謡曲演歌の要素なんて取り入れられたら、なおさら流行らないはずである。

 ここまで、書いてきて、お前はアンチなのかと思われるかもしれない。

 しかしこの時期のジャパメタは日本のメタル、ハードロックの基礎を作ったのだ。

 その基礎に基づいて後続にはB'z、X JAPANと日本のメタル、ロックだけではなく大衆音楽全般の礎となるビッグアーティストが誕生しているのだから、ジャパメタに足を向けて寝ることはできない。

 基礎に基づいて時代によって形を変えるのが表現だと思うし、そうあるべきだと思う。

 表現というのは言うまでもなく、その時代に生きる人の感情とか気持ちの表出なのであり、時代は社会情勢、技術などによってそこに生きる人の状況は刻々と変わっていくのだ。

 そうやって、刻々と変わっていく表現こそが、文化なのだ。

 一つの文化は次の文化は引き継がれ、形を変えていくもの。

 ロックは死んだという言葉をよく聞くけども、文化は変容し、死んでいく定めなのだと思う。

 しかし、人間は文化の上に根ざす生き物なので、それが死んでしまったら、根無し草のようになっていくのは何とも悲しい。

 

 

 

これって私の感想ですかね?

 また、何ヶ月もこのブログを放置してしまいました。

 三日坊主極まれりですね。

 言い訳をさせてもらうと、ここ最近仕事がとんでもなく忙しかったこと、新生活で何かとバタバタしてたことがあり、なかなか時間を取って文章を考えるということができませんでした。

 決して書くネタがなかったというわけではないですよ。決してね。

 最近、何かと仕事で上のえらい人たちと関わることが多くなったり、直属の上司と何かと折衝(喧嘩ではない)するようになって、いわゆるヒラ社員の上に立つポジションにいる人の共通項的なものに気づいたので、メモがてら。

 そもそも出世するには何が必要なのでしょうか。

 人柄、上司とのコネクション、タイミング、色々ありますが、何より実績とか成果の積み上げが第一かと思うのです。

 長いような短いような社会人生活の中で、実績とか成果ってなんだろうと考えると、「自分のやりたいこととか、やりますって言ったことを形にしたもの」なんじゃないかと思います。

 目標の売上を達成しました、こう言うシステムとか制度を導入しました、こういう施策や企画を計画から実行までやりました、とか。

 単に日頃の仕事をミスなくやりましたってだけではあんまり評価されなくて、何か形に残るものを作り出さなきゃ行けない。

 それを作り出すにあたっては、こういうところ大丈夫なの?とかここはこうしないと困るとかチクチク指摘してきたりする、上司とかもっと偉い人、他部署の人、時には全然外部の人が現れるわけです。

 しかし、そんな人たちに丸め込まれて、軌道修正ばっかりしたりしていたら、全く何も進まないし、当初の目的から大きく逸れたものが出来上がって、その後が苦しくなる。つまりは手間と時間と予算を使って壮大なゴミを作り出すことにもなりかねない。

 なんだかんだ、ファーストインスピレーションがそのまま形になった方(あるいはそれに近いもの)がうまく行くと言うことが多いと思うのですが、それを実現するには何をしたらいいのか。

 答えはシンプルだと思います。

 横からチクチク言ってくる人を丸め込んだり、退かせたりすることかと。

 ここはこうだから大丈夫なんです、承認してください。

 おたくはそうして欲しいとは言うけども、それは全体としてこうだからそうにはできない。

 つまりは、論破していく力ですね。

 しかし、ここで言う、論破、とは某インターネット掲示板でお馴染みの広く行っちゃってる人や、どこかの石が丸くなっちゃったような地方都市の首長が勢いづいて首都のトップを狙った人とかのような、正論まがいの詭弁や論理のすり替えではないです。

 言われたことに対して真っ向から答えて、なおかつ納得感のある論理を展開することです。

 ここで一番大事なのは納得感だと思います。

 会社は組織ですので、なんだかんだで和が尊ばれ、単純な正論まがいの詭弁、暴論で相手を屈服させるとただの声がデカくて扱いづらい人で終わってしまいます。

 これなら大丈夫、これなら仕方ないと相手を納得させて、ある程度、双方的な議論をしていくことが大事です。

 なので、上に上がるための論破力と言うのは「それってあなたの感想ですよね?」ではなく、「あなたの感想はごもっとも、それを踏まえても、、、」と展開していくことなのだと思います。

 

 

一番うまいドーナツ

最近ミスタードーナツゴディバとコラボして、なんだかラグジュアリーなドーナツを売っているらしい。

ミスタードーナツ、最近行ってないけど、ミスドで一番好きなのはオールドファッションだ。

あのパサパサしててうすら甘くて牛乳っぽい味もする感じが良い。その次はシュガーグレイズドが好き。甘いから。

だが、ドーナツの中で一番好きのはミヤタのヤングドーナツだ。

ミヤタのヤングドーナツもオールドファッションと同じく、パサパサしててうすら甘くて牛乳の味もするのだ。しかも一個一個が小さいので何個でも食べれてしまう。

ドーナツは揚げ物なので、ミスドで3個とか食べるとだんだん胃にダメージが蓄積してくるのだが、ミヤタのヤングドーナツはなぜか、もたれを感じさせない。

1袋に3個入っているが、平気で10袋開けてしまう。

値段は50円だかそこらで、500円で30個食べれてしまう、なんと言うリーズナブルさ。

味もうまいし、これは涙なしには語れない企業努力があるに違いない。

自分の小さな夢として、いつかミヤタのヤングドーナツを箱買いして、家で牛乳を飲みながら食べてみたい。

でもなんだかんだ、たまにはクリスピークリームドーナツも食べたい。

歌詞を書いてみろという。

この前バンドの友達と飲んでた時、曲を作ってみたいけど作り方がわかんないと話したら、とりあえず歌詞を書くところから始めてみたらと言われ、テーマを二つとりあえずもらいました。

テーマは居酒屋のドリンクメニューにあった、「東洋美女」と「庭のウグイス」

どちらも途中までですが、深夜テンションに任せて書いて幾晩か寝かせて、やはり才能ない人が深夜テンションで書いたものは共感性羞恥の塊だなと思ったので、ここに晒します。

 

「東洋美人」

半月の灯りの下

紫煙をくゆらす煙管

目に刺さる燻煙

趣がわからない僕

 

タイムカプセルの酒で

目の前が揺らいでいく

 

短調な風を

全身で浴びたい

どこから来たの

どこへ行きたいの

妖艶ともいえない

わからないな何も

フィルターが夜に降りていく

 

病みさえ奥ゆかしい

虚なのか哀愁なのか

視線で何を描くの

赤道も歪みそうなくらい

 

月からの迎えもとまどう

帰る場所などないのかも知れない

 

短調な香り

鼻につくほどに

面紗は無意味

浅ましい本性

所詮は張子

何もないんだ貴女

艶やかな、がらんどう

 

気づいていないのがタチ悪い

元の鞘にさえ拒まれてしまう

着地のない空中駆け引き

糸繰り人形が嗤っている

 

短調なつもり

機微を知ることも

貴女はしない

ままごとの雅

妖艶は香水か

安物の朝焼け

置物が微笑んだとて

 

 

「庭のウグイス」

 

ほら、綺麗な声で鳴いてみな

耳障りがいい音しか聞こえない

 

ああ、雑音が混ざる気がする

縁側に入る身分じゃない

 

オレたち目先の穀物

欲しいがためにさえずり囃す

 

叫ぶことを忘れ飼い殺され

本音は空に、籠に甘え

澄んだ声しか出せない喉元

掻き切ることもできぬまま

 

はて、待てども卵が孵らない

施しは過ぎるほど与えども

 

ああ、恩知らずな畜生ども

庭にいればいいだけなのに

 

オレたち生垣に囲まれ

安堵するためさえずり囃す

 

叫ぶことを忘れ飼い殺され

自由はとうに、鉛の羽

澄んだ声しか出せない喉元

掻き切ることもできぬまま

 

叫ぶことを忘れ飼い殺され

本音は空に、籠に甘え

澄んだ声しか出せない喉元

掻き切ることもできぬまま

 

おいぼれに飼われ食い殺され

雛たち土に打ち付けて

 

(誰にも需要のない解説)

「東洋美人」

この言葉を聞いて脳裏に浮かんだのはミステリアスな雰囲気をまとった寡黙な容姿端麗な女性です。しかし、言葉をあまり発さないのはどうせ中身が空っぽなんです。それを悟られないため言葉を発するのを躊躇うんじゃないかと思います。雰囲気を作って自分のブランドを確立した気でいる、そんな浅ましい人間です。

私は雰囲気だけ取り繕ってごまかしているだけで、みんなからもてはやされるような中身のない人間は嫌いです。でも、中身のないことさえも艶やかな奥深さに昇華できるような人間がいるのだとしたらそれは文句なく東洋美人でもなんでもいいですが、そんな勲章を与えてやってもいいくらい大した人間だと思います。

現代は写真の加工技術や、アバターの技術でなりたいものになれる時代です。誰もが東洋美人になれるのですが、そう言ったものが全て取り去られて、彼らの本性が白日の下に晒される時、その安っぽさがいままでどうにか確立してきたものを崩していくのです。

東洋美人という張子の下は我々となんら変わらない、あるいは我々よりも底が知れてしまう。案外人間ってそんなに大差ないものだと思うのです。

 

「庭のうぐいす」

鳥は他の生き物が自力では到達できない、空を我が物顔で自由に飛び回ることができます。鳥が持つ翼は自由という概念によく紐付けられるのではないかと思います。

そして、ウグイスという鳥はそんな自由を持ちながらも綺麗な声で鳴くことができ、ある種の才能に恵まれているのではないかと思います。

そんな才能も自由も持つようなウグイス達が、生垣や塀で囲われた庭になぜ居なければならないのかというと、その所有者に飼われているからだと考えました。

「飼う」という行為は所有する存在を擁護するものあると同時に、その生殺与奪の権を握るものだと思います。つまり、飼い主の気まぐれ次第では飼われている存在は死ぬことや酷い目に遭うことだってあるということです。

なので、ウグイス達はせいぜい飼い主の機嫌を損ねないよう、本音を押し殺し綺麗な声で鳴き続けるしかないのです。

これは、現代社会の権力あるものとそうでないものとの二項対立にも言えることではないのかと思います。

社会を所有する権力者と、その中に生きる我々。彼らは国民のためとか言っていますが、本音はウグイスの飼い主とおなじなのではないでしょうか。本音を言うような者は切り捨てる。綺麗な声しか聞こえないような環境を自分達で作っている。

我々飼われている側は切り捨てられることを恐れ、そして、どんなに声を上げてもどうせ届かないと諦め、目先の安全を取り、多少の苦しみは甘んじて受け入れるしかないのです。

そのため未来なんかに希望を見出せない。

LUNA SEAのセルフカバーアルバムを聴いた感想など

11月末にLUNA SEAの名盤、「Mother」、「Style」をセルフカバーしたアルバムがリリースされました。

ここ最近、出費がかさんでいるのでレンタルに出たら借りて聴くかあ〜と思っていたら、なんとリリース日当日にサブスクからも聴けるようになっていた。

あまりにも太っ腹すぎるだろ。

これは聴くしかないので、リリース日から今日まで毎日聴いてました。

感想を語り合えるような人もいないので、ここで少し。

まず、一言でざっくり言うとどちらも最高すぎました。

再録版というと、オリジナルに色々アレンジをして原曲とはちょっと別物になることが多いような気がするのですが、LUNA SEAのこのセルフカバーのアルバムたちはオリジナル版のアレンジにほぼ忠実に演奏されている。

驚いたのはSUGIZO氏のXのつぶやきで、「Style」に収録の「WITH LOVE」という曲にある冒頭のレコードをスクラッチした音を再録するにあたって当時と同じレコードを掘り返してきて、全く同じスクラッチ音が出るように色々と工夫をしたとのこと。そこまで忠実に再現しようだなんて、こだわりなんて言葉を通り越して病的である。

しかし、アレンジはほぼ同じではあるものの、随所に今のLUNA SEAにしか出せない音の厚み、洗練されたニュアンスやアタック感、アンサンブルが詰まっていた。オリジナルが研ぎ澄まされたナイフのように鋭い音な印象なのだが、今回のセルフカバー版はずっしりと思い鈍器のような(例えが下手)重厚な音なのである。

一方で、「End of Sorrow」や「In Future」が特に顕著に見られるのだが、ボーカルのエフェクトやシンセ(?)の音、ギターのオクターバーがオリジナルよりも抑えられバンドの生のサウンドをグッと押し出したようなミックスもされているところもある。原曲から引き算をすることによって、バンドの音の解像度が上がっている。オリジナル版では聴こえなかった音が聴こえてくるのである。

普通はこのように削ぎ落としてしまうと、ともすれば、薄っぺらい印象になってしまうのではないかとも思われるのだが、かえって骨太な音になってしまっているのが、LUNA SEAというバンドの凄みなのだと感服してしまった。

ギターの音に着目すると、オリジナル版はどちらかというとトレブル(高音域)に寄った音作りとなっているのだが、今回の再録版は中域をブーストしており、これまた濃密でリッチなサウンドとなっている。

特に「ROSIER」のリードギターは、あとちょっとトレブルを削ってしまうとこもった音になってしまうのではないかというくらい、中域と低域をブーストさせてしまっているが、一歩引くことにより他の楽器が程よく前に出ており全体のサウンドとしては絶妙なバランスを取っているのとともに、原曲の疾走感と今のLUNA SEAの重厚さを両立させてしまっている。とんでもない芸当である。

最後にボーカルのRYUICHIは昨年の初め喉を壊し、手術を受けて5月に復帰しているのだが、その後あまり調子が戻らず、声が出にくい印象である。今回のアルバムでもそのようなところは垣間見えるが、ところどころかすれてしまっているところがオリジナルでの尖った雰囲気を出していることができており、新たな境地に至ったのではないかと思えた。

このセルフカバーアルバム2作品を聴いて、現LUNA SEAは今なおもバンドとしての音を追求しているのだと思い知らされた。

最近はどちらかというとエレクトリカルなサウンドを活用した曲やアレンジが多いが生のバンドの音を突き詰めて、どこまで濃いものにできるかというこだわりが存分に詰まったアルバムであった。

 

好きなもの

以前、嫌いなものリストを作ってネタがない時のために書き溜めて公開しました。

随時そこも人知れず更新してたのですが、そっちもネタ切れになったので、今度は好きなものリストを書き溜めましたので、ネタがないので公開しますね。こちらも随時更新します。

好きなものを見つけていくと反面で嫌いなものももっとはっきりするかも知れませんね。

・ピザ

・ラーメン

・焼肉

・お寿司

・ギター

・メタル

・愛嬌のある犬

・ギャンギャン吠えてる小動物が、でかい動物にガチで噛まれてるような瞬間

・家庭をかえりみなかった仕事一筋の赤の他人の頑固親父がいつのまにか家族に見放されて孤独になってしまったと言うエピソード

・調子乗ってるインフルエンサーがちょっとしたほころびで転落していく様子

・というか、ちやほやされてたひとが落ちぶれていく様子全般

・でっかい牛肉の塊を豪快な大男がバーベキューで焼いてる様子

・雑学系のゆっくり解説

・ユーチューバーの「もののけ」さん

・喋るのが上手いオウムとか九官鳥

・目がいってるキャラクター

・パンどろぼう

・カエルのカーミット

・犬のグルミット

・オレみたいな陰キャチー牛が陽キャがやって成立することにチャレンジして見事失敗して惨めになっている様

撮り鉄が邪魔されてるところ

・そこらへんのなんの才能もないクソガキがテレビ番組でおだてられ、自分に才能があると勘違いして何かに挑戦して途中途中でわかったようなことを言ってたくせに、最終的に見事に失敗して現実に直面して心をぶち折られている様

・渋いおっさんたちが暴力全開のアクション映画

・朝の電車で席の取り合いになって、無理やり割り込もうとしてきたけど、結局は図体とパワーの差で押しのけてやった時のジジイババアの悔しそうな顔

・中域が効いてるギターの音

・頭の悪そうな料理ばかりを作ってるユーチューバー

・意識高くてプライド高めなやつのちょっとしたミスを鬼の首を取ったように詰めまくってやるとき

・スーパーとかコンビニとかで、オレより幸せそうなやつが取ろうか迷ってた最後の一個のおにぎりを、サッと取ってやった時の雰囲気

・奇抜なことがかっこいいとか思ってるけど、そもそもあんまり面白くないやつが、めちゃくちゃに叩かれて、バツが悪くなってる様

・なにも被害を受けてないのに、被害者ヅラしてる奴が現実に打ちのめされてしまうとき

・オレみたいな陰キャチー牛がイキって店員とかに無理難題を言ってみるもののあっさり跳ね除けられ、釈然としない顔で反論もできないまま立ち去る様子

ヴィーガンヴィーガンすぎて栄養失調になって苦しむ様

・金持ちのバカな子どもが転落する様子

・オレに優しくしてくれる人

・オレに金をくれる人

・宝くじのクジラが浜に打ち上げられて、海に戻れないので衰弱していき、最後は息絶える様子

・せっかく賭けてやったのにあっさり負けた馬の馬刺し

・給料日

・ボーナス支給日

・三角折りしているトイレットペーパーを雑に引きちぎってやる時

・論破されてるヴィーガン

ヴィーガンズ・ハム

何も失う覚悟のない奴が全てを得ようとするな

私は人生で何を得たでしょうか。何も得ていません。

今日友達と飲んでてなぜそんな人生なのかわかりました。

私は何も失う覚悟がないのです。

その友達たちは、彼らは全てを失っていて、その分得ているのです。

必ずしも全てを失ったからと言って何かを得られるわけではない。

失ったところで彼らは死ぬほどの努力をして、今何かを得ることができている。

中途半端に何かを持っている人間が努力したところで、そんな努力は所詮中途半端な努力にしかならない。

何もかもを失ってそれでもなお、全てを取り戻そうとする中途半端な人間には辿り着けない次元の努力を彼らはしている。

私にはそれを語ることもましてや想像することも許されないようなものだ。

だから、今何も得られない同胞たちよ。

社会、国家、時代、そう言うものを悪者にしている浅はかな私たち。

搾取されていると叫ぶな。

我々は搾取されるべくしてそうなっているんだ。

我々は目先の幸福とか安心感を拠り所にするがばかりに何も得られていないのだ。

全てを得ることができるのは全てを失う覚悟が出来るものだけなのだ。

我々は、お前らは、お前は、ぬるま湯に浸かっていながら被害者ヅラをして、独りよがりな思いを垂れ流しにしている、生き物として最底辺にいるのだ。

それも自覚できなかった私も、お前らも、世間の底に溜まって、上から降ってくる霞を取り合って、日々を消費していくしかない。

私たちに物を言う資格はないのだ。