そこらへんのくたびれちゃった人のよもやま話

どこにでもいる、ちょっとヨレてる人があーだこーだつらつら書き散らかします。

歌詞を書いてみろという。

この前バンドの友達と飲んでた時、曲を作ってみたいけど作り方がわかんないと話したら、とりあえず歌詞を書くところから始めてみたらと言われ、テーマを二つとりあえずもらいました。

テーマは居酒屋のドリンクメニューにあった、「東洋美女」と「庭のウグイス」

どちらも途中までですが、深夜テンションに任せて書いて幾晩か寝かせて、やはり才能ない人が深夜テンションで書いたものは共感性羞恥の塊だなと思ったので、ここに晒します。

 

「東洋美人」

半月の灯りの下

紫煙をくゆらす煙管

目に刺さる燻煙

趣がわからない僕

 

タイムカプセルの酒で

目の前が揺らいでいく

 

短調な風を

全身で浴びたい

どこから来たの

どこへ行きたいの

妖艶ともいえない

わからないな何も

フィルターが夜に降りていく

 

病みさえ奥ゆかしい

虚なのか哀愁なのか

視線で何を描くの

赤道も歪みそうなくらい

 

月からの迎えもとまどう

帰る場所などないのかも知れない

 

短調な香り

鼻につくほどに

面紗は無意味

浅ましい本性

所詮は張子

何もないんだ貴女

艶やかな、がらんどう

 

気づいていないのがタチ悪い

元の鞘にさえ拒まれてしまう

着地のない空中駆け引き

糸繰り人形が嗤っている

 

短調なつもり

機微を知ることも

貴女はしない

ままごとの雅

妖艶は香水か

安物の朝焼け

置物が微笑んだとて

 

 

「庭のウグイス」

 

ほら、綺麗な声で鳴いてみな

耳障りがいい音しか聞こえない

 

ああ、雑音が混ざる気がする

縁側に入る身分じゃない

 

オレたち目先の穀物

欲しいがためにさえずり囃す

 

叫ぶことを忘れ飼い殺され

本音は空に、籠に甘え

澄んだ声しか出せない喉元

掻き切ることもできぬまま

 

はて、待てども卵が孵らない

施しは過ぎるほど与えども

 

ああ、恩知らずな畜生ども

庭にいればいいだけなのに

 

オレたち生垣に囲まれ

安堵するためさえずり囃す

 

叫ぶことを忘れ飼い殺され

自由はとうに、鉛の羽

澄んだ声しか出せない喉元

掻き切ることもできぬまま

 

叫ぶことを忘れ飼い殺され

本音は空に、籠に甘え

澄んだ声しか出せない喉元

掻き切ることもできぬまま

 

おいぼれに飼われ食い殺され

雛たち土に打ち付けて

 

(誰にも需要のない解説)

「東洋美人」

この言葉を聞いて脳裏に浮かんだのはミステリアスな雰囲気をまとった寡黙な容姿端麗な女性です。しかし、言葉をあまり発さないのはどうせ中身が空っぽなんです。それを悟られないため言葉を発するのを躊躇うんじゃないかと思います。雰囲気を作って自分のブランドを確立した気でいる、そんな浅ましい人間です。

私は雰囲気だけ取り繕ってごまかしているだけで、みんなからもてはやされるような中身のない人間は嫌いです。でも、中身のないことさえも艶やかな奥深さに昇華できるような人間がいるのだとしたらそれは文句なく東洋美人でもなんでもいいですが、そんな勲章を与えてやってもいいくらい大した人間だと思います。

現代は写真の加工技術や、アバターの技術でなりたいものになれる時代です。誰もが東洋美人になれるのですが、そう言ったものが全て取り去られて、彼らの本性が白日の下に晒される時、その安っぽさがいままでどうにか確立してきたものを崩していくのです。

東洋美人という張子の下は我々となんら変わらない、あるいは我々よりも底が知れてしまう。案外人間ってそんなに大差ないものだと思うのです。

 

「庭のうぐいす」

鳥は他の生き物が自力では到達できない、空を我が物顔で自由に飛び回ることができます。鳥が持つ翼は自由という概念によく紐付けられるのではないかと思います。

そして、ウグイスという鳥はそんな自由を持ちながらも綺麗な声で鳴くことができ、ある種の才能に恵まれているのではないかと思います。

そんな才能も自由も持つようなウグイス達が、生垣や塀で囲われた庭になぜ居なければならないのかというと、その所有者に飼われているからだと考えました。

「飼う」という行為は所有する存在を擁護するものあると同時に、その生殺与奪の権を握るものだと思います。つまり、飼い主の気まぐれ次第では飼われている存在は死ぬことや酷い目に遭うことだってあるということです。

なので、ウグイス達はせいぜい飼い主の機嫌を損ねないよう、本音を押し殺し綺麗な声で鳴き続けるしかないのです。

これは、現代社会の権力あるものとそうでないものとの二項対立にも言えることではないのかと思います。

社会を所有する権力者と、その中に生きる我々。彼らは国民のためとか言っていますが、本音はウグイスの飼い主とおなじなのではないでしょうか。本音を言うような者は切り捨てる。綺麗な声しか聞こえないような環境を自分達で作っている。

我々飼われている側は切り捨てられることを恐れ、そして、どんなに声を上げてもどうせ届かないと諦め、目先の安全を取り、多少の苦しみは甘んじて受け入れるしかないのです。

そのため未来なんかに希望を見出せない。