そこらへんのくたびれちゃった人のよもやま話

どこにでもいる、ちょっとヨレてる人があーだこーだつらつら書き散らかします。

たまに思い出すこと

最近ふとした時に思い出すことがありまして。

中学生の時に学校で英語でスピーチをする大会みたいなのがあって、それになぜか日本語ですら口下手な私が出なさいと言われた時があったんですよ。

何か自由にテーマを決めてそれについて英語で喋りなさいというもので、例えば海外の文化と日本の文化の違いとか、世界情勢を見て日本はどうするべきかの提言というなんとも重いものから、はたまたチーズはうまくて健康にいいみたいなライトな話題までなんでもいい。

口下手なんだから難しくなくて気軽に話せるネタを書けばよかったんですが、中学生はカッコつけたがるので、テーマを「言葉について」と設定してぐだぐだ原稿を書くことにしました。

作文はとりとめのない内容をスラスラ書ける方で、英語もそう抵抗もなかったので、原稿は書けました。

しかし、口下手で声は普段からボソボソとしか出ず、しかもなるべく暗記して聴衆に目線を向けて喋るようにとのことだったので、緊張で頭が真っ白になって原稿全て飛んでしまって、もう散々でした。なんで自分をそんな大会に出したのか、神経を疑いますね。

しばらくの間、その出来事があって学校に行くのも恥ずかしいくらいだったのですが、あるとき全然面識のない教師から声をかけられました。

私はスピーチの冒頭(唯一まともに話せた箇所)で、言葉というのは移り変わっていくものだと話したのですが、その教師に言わせると、英語は何百年間、それほど変わってない、シェイクスピアの作品も原文ままで読めるんだ。君が言ったのは日本語の古文と現代語の対比くらいでしか当てはまらない。知見が狭いので勉強するように。ということでした。

スピーチ大失敗して、なんなら自分の持ち時間の大半を沈黙で過ごしてしまった人間の唯一喋れた箇所につけるコメントではないな、思いやりとかこいつないのか。と思いましたがなんか言うとその10倍は返してきそうだったので、なるほど勉強になりましたとだけ言いました。

それからだいぶ時間が経ってから大学での英語の授業でシェイクスピアの原典に触れることがありました。その先生の言っていたことは嘘でした。すくなくとも屁理屈です。

確かに、ちらほらわかる部分はあるし、文法もなんとなく同じではあるのですが、古語が多くて明らかに現代英語とは異質なものがありました。

これが、「ほとんど変わってない」の範疇には私の目からは見えませんでした。

当時私にケチをつけてきた清見先生の心情はおそらく、たかだか10代のガキが知ったようにオレが何十年と専攻して勉強してきた言語学を知ったふうに語りやがって、しかも当人はスピーチが下手なくせに。これだから自分が頭がいいと思い込んでいてそのくせ何の能力もないガキは嫌いなんだ、よし、一言物申してやるというところでしょうね。

清見先生、安心してください、いま30代手前になった私もそんなガキみつけたらとっ捕まえてけちょんけちょんに言い負かせて泣かせたいくらい、そんなガキは嫌いです。あの時いただいた貴重なご高説の反動かもしれませんね。

でも最近のガキはデジタルネイティブ情報リテラシーが高いので、口喧嘩は強そうです。

言葉よりも前に時代は変わるんですよ、先生。言語学の専門家ではないので、的外れな意見かと思いますが、時代に遅れて言葉は変わってくるものだと感じます。

なぜなら、ある時代に生まれたばかりの単語や文法の使い方はいわゆるスラングや若者言葉などと保守的な年輩者に言われ正式な使われ方はしないけれども、それが長年定着して馴染んでしまうと、正式な文法や使われて当たり前な単語になると思うのです。

至極当然ですよね。英語なんかもそんなことがあって今の現代英語の体系になったのではないでしょうか。

あんまりこの話にオチはないですが、こういう学生時代の些細な出来事も自分のひねくれた人間性を形成するきっかけになっていたのかもしれないと思うと、やはり大人は子どもに寄り添っていかなければならないんだと感じます。

あんまりガキは好きじゃないですけど。